【コラム】コロナ禍と大学教育①:オンラインによる大学教育について
2020年は年始から新型コロナウイルス一色であった。中国・武漢市、そしてダイアモンド・プリンセス号に始まった一連の騒動は、瞬く間に日本列島に広がり、そして世界中を席巻した。
流行拡大が年度末・年度初めであったため、教育機関も大きな影響を受けた。もちろん僕が所属している大学も、即座に対面での授業が禁止され、学生はキャンパスへの入構禁止、教職員は在宅勤務となり、短時間でオンラインでの授業を準備せざるを得なくなった。
現在、我が国では収束に向かいつつあるものの、多くの大学で未だオンラインでの授業を継続し、看護教育の肝とも言うべき実習の実施についてあらゆる選択肢を考えながら準備を進めている。
本稿では、コロナ禍における看護教育についての私見を論じていく。特に第1回の今回は、コロナ禍で最も大きく変化した「オンライン授業」について、そしてコロナ禍で見えてきた大学での教育についても私見を述べる。
教員は疲弊、学生は不満…?大学のオンライン授業をどう見るか
たしかに、僕も短時間で資料を作り変えたり、環境を整えたりと、例年にない負担があった。学生への連絡も、従来であれば対面で思い出したときに伝えられるし、メールや学内の教育支援システムはあくまで「支援」として使用していたのが、今回はコミュニケーションのメインツールになった。
パワーポイントとホワイトボードを使いながら時折ディスカッションを交えて…という授業の進行が非常に難しくなり、授業の進行計画自体作り変える必要があるなど、たしかに負担は大きいなあと感じている。
上記の東京新聞の記事にあるように、たしかに学生側からオンライン授業の「質」に対する不満はあるようだ。従来の授業よりも質問しづらかったり、ディスカッションしづらい、という点は現状やむを得ない。
一方で、「通学の時間がないから遅刻しなくなった」「家庭の事情で登校しづらいときや入院などで登校できないときでも出席できる」「むしろオンラインのほうが意見を言いやすい」といった、オンラインならではのメリットも報告されている。
看護教育は一般的に、必要な知識の講義を行う座学、技術の取得や練習を行う演習、知識と技術を統合させる実習の3部構成である。オンライン授業では特に、この演習と実習の実施が非常に難しく、教える側は頭を抱えている。この点については第2回で述べる。
オンライン授業と「授業の質」
ここでは主に座学に関する「授業の質」について私見を述べる。
やむを得ずオンライン授業を行っている側として自己弁護するわけではないが、そもそも対面の授業も良質なものだったのだろうか、という根本的な疑問がある。
僕が大学で基礎教育を受けていたとき(10年ほど前だが)、教科書を読むだけという授業もあったし、インタラクティブな授業はほとんどなくただ一方的に聞いている授業がほとんどだった。
確かに看護教育では必要最低限の知識をインプットしなくては実践に結びつかないので、知識の入れ込みは大切だが、教科書を読むだけ、一方的に話を聞くだけという授業が質の高い授業だとは到底思えない。講義がうまい先生の授業は聞いているだけでわかりやすい、理解しやすいと感じているのであればそれはそもそもの大前提が間違っている。
一方学生はどうだろう。従来の対面の授業で、授業の質を適切に評価できるほどきちんと1コマ集中して、内職せず受講している学生はどれほどいるだろうか。正直大教室であれば、良くて3分の1程度ではないだろうか。そもそも質の高い授業を希望し、受講している学生がどれほどいるのだろうか。遅刻せずに、居眠りせずに、内職せずに、積極的に発言し、高い学習効果を期待している学生はどのくらいいるのだろうか。少なくとも僕は学生時代に質の高い授業を望んだことはあまりなかった。だからといって今自分がいい加減な授業をしても良いとは微塵も思っていないが。
ここで言いたいことは、そもそも対面の授業でさえ教える側の授業は質の低い授業が多いのが正直なところだし、受ける側もそこまで質の高い授業を望んでいるのかは疑問である。「オンラインだから質が低い」という議論はあまり本質的でないように思う。
ただ、「だからしょうがないじゃん」というつもりはなく、オンラインという環境のおかげで、教える側は提供する授業の質を本腰入れて内省すべき良い機会なのだろうし、受ける側も積極的に授業に参加してお互いに質の高い授業を作り上げなければならない、ということに気づくべきだろう。
オンライン授業の質と授業料
授業の質が低いと感じていること、オンライン環境の整備が経済的圧迫があることなどから、「授業料を減免すべき」という議論が起こっている。
授業の質は前述の通り対面でも質が低い授業はたくさんあるので、「質が低いから授業料を減免すべき」というのは「オンライン授業だから」という文脈の中では無理があるように思う。
また、これは一概に決めつけることはできないし、強制できることではないが、このご時世自宅に最低限のオンライン環境を作っておくことは学ぶ側として基本的なことなのではないだろうか。多くの大学で、シラバスや成績登録はオンライン化されているし、教育支援システム、教員とのやり取り、レポートや資料の作成、データの送受信など、教育に関するあらゆることがオンラインで行われている。
無論、大学側もこうした従来の必要環境に加え授業自体もオンラインベースの授業を展開する(今回のような場合)のであれば、経済的に環境整備ができない学生に対してのサポートを十分にするべきである。この点については後述する。
少し話が逸れたように思うが、そもそも授業料というのは、4年間の授業を均てん化したときの必要経費を収めるのであって、その期(今回であれば2020年度前期)に受ける授業について納めるものではない。よく3年生や4年生の先輩が「単位取り終わってるからもうほとんど授業ないんだよね。」と言っていることを思い出してもらえればわかると思うが、その先輩たちもその当該期に授業は受けないが同じように授業料を支払う義務があるのと似ている。学生生活が送れていないからといって授業料を減免せよ、という理屈もあまり通りそうにない。
つまり、授業の質が低いことや授業がオンラインで行われていること、オンラインの環境を整備する必要があることなどは授業料を減免する理由にはなりにくい。
しかし、大学で本来利用できるはずだった学習に関する施設(図書館や実験用の機材、計算機や体育館など)を利用できていないのであれば、そうした施設を利用できていないことによる減免、というのはあり得るだろう。そうした施設は本来大学側が学生に提供すべきものとして準備している(側面もある)ためである。まあ、従来であってもどのくらいの学生が利用しているのかはよくわからないが…。
ここからは完全な僕の考えだが、本当に経済的に厳しいのであれば、奨学金の増額を希望したり、また現在のオンライン授業が本当に質が低くて受けたくないのであれば、休学しても良いと思う。学生生活1年遅れることに不安を感じるかもしれないが、社会に出れば1年なんて誤差だし、そもそも大学には浪人して入学する人たちも大多数いる。1年や2年の差異なんて大したこと無い。1年休学すれば授業料を払わなくて済むし、来年にはもう少しマシな授業が聞けるかもしれない。
授業のオンライン化から見えてくるもの
非常に特殊な社会情勢のもとオンライン授業が急ピッチで進めざるを得なかったため、様々な問題や要望が表面化していることは事実であろう。
ただ冒頭で述べたように、オンライン授業によってもたらされたメリットも少なからずあるはずである。
例えばオーストラリアの看護教育では、国土が広くすべての学生が通学することが困難なため、かなり前からオンラインベースの授業を展開している。
授業を繰り返し確認できることや、不必要な部分を飛ばして見れたり、場所を問わず授業に参加できることなど、オンラインならではのメリットを上手く活用して授業が設計されている。
我が国でも、あまり感情的情緒的にならずにコロナ禍によって大学教育を見直す良い機会だと捉え、冷静に対処するべきだろう。問題だけを抽出しては、将来のより良い教育にはつながらないはずである。
次回「コロナ禍と大学教育②:看護教育について考える」