【コラム】コロナ禍と大学教育②:withコロナ時代の看護教育について考える
前回の記事では、新型コロナウイルス感染症に伴い変更を余儀なくされた大学教育のオンライン環境に関する私見を述べた(前回の記事)。
今回は、コロナの襲来によって変化した看護教育について、現状の課題や将来の展望に関する私見を述べる。
これまでの看護教育と大学教育に求められること
私が大学で看護教育を受けたのは、今から約10年前である。現在は縁あって教える側として大学教育の現場に戻り、看護教育に携わっている。
大学に戻ってきた当初感じたことは、率直に言えば「僕らのころとあまり変わってないな」と感じた。
現在の看護教育は、ザックリいうと教室で講師の授業を聞く講義、実技を練習したりPaper patinentへの看護過程を展開する演習、そして講義で得た知識と演習で得た実践能力を統合させる実習、というカリキュラムになっている。
一昔前から看護教育の大学化が急速に進められてきたが、専門学校ではなく大学で看護教育を行うメリットはなんだろうか。それはつまり、大学という機関で何を教え、どのような能力を身に付けて卒業させるか、ということである。
僕が思うに、看護教育に関わらず大学で身に付けるべき重要な能力は、「物事を批判的に捉える視点」と「課題解決のために情報を取捨選択できる能力」、そして「情報発信能力」ではないかと思う。
様々な情報に溢れて、たいていの情報に誰もがアクセスできる時代になった今だからこそ、こうした能力の涵養が大学教育に求められているのではないかと感じている。専門学校との大きな違いはそこにあると思う。
授業体系の見直し
前述の通り、今は必要な情報にいつでも誰でもアクセスできる時代になった。そしてアクセスした情報、必要な知識を簡単に共有できる時代でもある。
そのような時代において、教科書に書いてあるような、いわば読めばわかる知識をわざわざ教室でそれを教授する授業にそこまで意味があるとは思えない。
もちろん、僕たちは専門職になるべき最低限の知識を得る必要はあるので、「読めばわかる」知識を軽んじているわけではない。ただ、それを身に付けるための教育手法が「座って講師の話を聞く」という方法がベストだとは思えない。
先に述べた大学卒業時に身に付けるべき能力の涵養を前提とするならば、例えば学生をいくつかのグループに分け、ある単元について学生自身が講師となってプレゼンし、内容についてディスカッションするとか、一般的な知識は講師から学び、学んだ内容を看護にどう活かすかについてグループワークやディスカッションしても良いだろう。
端的に言ってしまえば、これまでの教育は非常に受動的な授業体系が多く、結果として大学で身に付けるべき能力が十分醸成されないまま卒業してしまっているため、能動的に学べる授業やインタラクティブな授業を設計する必要があるだろう(最も、教育学や看護教育の分野では、インタラクティブな授業や学生が能動的に学べる授業の教育効果は様々なエビデンスが確認されている)。
大学教育の最終章の代表といえば「卒業研究」であろう。なぜ卒業研究が最後のほうに位置付けられているのか。それは、研究という営みは、現状を客観的に把握し、自ら社会課題と研究課題を見つけ出し、さらにその課題を解決するために適切な方法を考え、実施し、課題解決の示唆を得ることである。
社会に出ると、自ら考え行動する能力が求められる。そうした実践を実体験できるのが「卒業研究」なのである。
この実体験の前までに「物事を批判的に捉える視点」「課題解決のために情報を取捨選択できる能力」「情報発信能力」を醸成させるような授業を設計すべきである。
教育は将来への投資
大学の教育課程で学習する以上、看護学科だからといって看護に関する知識や技術だけを習得して卒業するのは不十分である。
一方で、看護教育過程は積み上げ型の十分にシステム化された過程でもあると思うので、カリキュラムをこなすことだけを考えるのではなく、4年間で習得すべき能力をfacultyメンバーが意識することで、自律した社会人を育成することができると思う。
自律した看護師を育成するためには、看護教育、特に大学教育でその基礎を創らなければならない。何が正しくて、何をすべきなのか、そして適切な思考と行動をとれる社会人を育成することも大学が担うべき大きな役割であると同時に、大学教育の門をたたく学生もまたその自覚を持って学習する必要があるだろう。
コロナ禍によって講義のオンライン化など、教育にも変化が求められている。特に看護を含む医療専門職教育は、知識と実践の融合が非常に重要である。
オンライン化によって、どのような能力を身に付けるべきか、どのためには何をどのように教えることが効果的・効率的なのかを再考する良い機会になることを願っている。